人類は一つ

今日はまず、9月14日の東京新聞の「紙つぶて」というコラム欄の記事を紹介してみます。

新渡戸稲造といえば『武士道』の著者として、戦前日本を代表する国際人であることは言うまでもない。その彼が国際連盟事務次長として北欧の領土問題を解決したことは案外知られていない。
バルド海のオーランド島は、スウェーデン人が住む平和で美しい島であるが、領土紛争が絶えなかった。筆者も六年前に訪れた。
この島は十九世紀初めの戦争でロシア領土になったが、ロシア革命時にロシアから独立したフィンランド領にかわった。このためスウェーデンフィンランド間で紛争になった。住民の大半がスウェーデンであることもあって同国帰属を望んだ。
その時調停に乗り出したのが、新渡戸が事務局にいた国際連盟であった。
1921年、島の主権はフィンランドが持つことを決めた。ただし、スウェーデン住民に言語や完全な自治フィンランド議会での指定席を認めた解決方式を編み出した。
新渡戸の名前はこの島をめぐる領土紛争の解決策であるオーランド・モデルと関連して、見直されている。簡単に言えば、主権と統治権とを分ける方式である。
欧州では領土問題でもめているという話をほとんど聞かない。ウェストファリア体制での主権国家対立のとげとげしさを解決する知恵を、日本人も提供した形だ。
その日本周辺で21世紀の今も領土問題を争っているのでは、新渡戸もく草葉の陰で泣いていよう。英知が必要だ。(下斗米伸夫=法政大教授)

筆者の下斗米氏は、戦前に新渡戸稲造という日本人が「知恵」をもってオーランド島の帰属をめぐる紛争を解決したが、今、尖閣諸島をめぐる紛争の真っただ中にある日本人に新渡戸稲造のような「英知」が必要であると訴えているのである。
私もまことにそうであると思う。
では、ここで、国際連携の事務次長として世界平和のために世界を駆け巡った新渡戸稲造の知恵(英知)は、どのようなものであったのか、それをさぐってみたいと思います。
新渡戸稲造の生涯や思想については、多くの本が出版されているので、詳しいことはそれらに譲ることにして、皆さんにぜひ見ていたただきたいのが、斑目力曠氏制作の下記のHPの中の彼に関するものです。

新渡戸稲造生誕150年記念 第1弾 世界を結ぶ「志」〜新渡戸稲造の生涯〜)
 http://www.hirameki.tv/(「ひらめきと感動の世界」でも開けます)

このホームページの動画から、新渡戸稲造の「志(こころざし)」「信念」をさぐってみます。
彼は、世界が戦争に向かおうとしているとき、世界中の民族の共存共栄を心から願い、日本と世界諸国との国際協力を実現するために一生をささげて尽力した人物でした。
このような彼の言動を支えたのが、
「人類は表面は違ったように見えるけれども、底の底まで掘り下げてみると、みな同じである」
すなわち
「人類は一つである」
という信念でした。この信念こそが、言葉を換えて言えば、前述したように、探ろうとした彼の「知恵」(以下「智慧」と表記します)であると言うことができるでしょう。
 
まず、以下、彼の生涯を簡単にまとめてみます。

1862年、今の盛岡市に生まれる。
1877年、農学をこころざして札幌農学校に入学。
ここでクラーク博士が残した教えに触れる。
それはキリスト教による「心の教育」であった。
クラーク博士の教育の基調は「自由であれ」しかし「紳士たれ」であった。
その結果、学生たちの中には「自分で自分を律する」という気持ちが生まれてきた。
農学校でありながら、農学だけではなく、かなりの時間をリベラルアーツ(哲学・文学・人の生き方等)に、さらに語学にあてた。特に素晴らしかったのは英語の教育であった。すべて英語で教え、学生たちはすべて英語で教わった。
新渡戸稲造はまじめな考え方をする人。
農学校にあった3000冊ぐらいの蔵書を読破したと言われている。
大人になってから、「学問より実行」と言ったが、3000冊も読んだ人がそのように言うから重みがある。
しかし、勉強すればするほど疑問が増えた。礼拝や説教は形だけの気がする。西洋のキリスト教をまねるだけで本当にキリストの心がわかるのだろうか、という疑問。
いつしか心の病にかかり、19歳の夏休みに脳衰弱の療養のため、9年ぶりに母の待つ盛岡に戻った。しかし二日前に母勢喜はこの世を去っていた。
悲しみのなか、イギリスの思想家カーライルが書いた『SATOR RESARTUS』の中の
「お前には勇気がないのか。自由の子として地獄を踏みつける勇気はないのか、悪魔だろうが、地獄だろうが、恐れるな、男らしくたたかってやろうではないか」
という言葉に出会った。以後この本は聖書と並んで稲造の愛読書となった。
1881年、札幌農学校を卒業し、北海道開拓使の役人となる。
田畑を守るため農家をかけめぐっていたが、開拓使が廃止され失職する。
1884年、22歳のとき、東京大学に入学する。
その時の面接のとき、次のような終生思い続けた自分の志を語った。
「英文学を学んで太平洋の橋となりたいと思います。日本の文化を外国に伝え、外国の文化を日本に普及するその橋渡しとなりたいと思うのです」
東大に入って、東大が学問的に遅れていること、学生のレベルの低さにがっかりする。
そこで、アメリカ留学を決意し、アメリカ・ボルチモアのホプキンス大学に留学。
そこで平和を愛するクェーカ派に入る。
日本を紹介する講演会の依頼が入る。講演が評判をなり各地から依頼がくる。
そしてフィラデルフィアでの講演のあと、のちに妻となるメリー・エルキントンに出会う。
1887年、札幌農学校助教授としてドイツのボン大学に留学。
1891年メリーと結婚。
帰国後、札幌農学校の教授となる。
貧しくて学校に通えない子供のために「遠友夜学校」作る。
7年後体調を崩しカナダのビクトリアに渡り、健康の回復に努める。
大自然中に身をおいて疲れた神経を休ませる。
その後、カルホルニアで日本人が道徳を学ぶ場所を見出し、『武士道』を書き上げる。
1900年、「武士道」が出版され、大評判となる。この本の中で、正しい行動を導く道理としての「義」、
「名誉」や「勇気」などの日本人の道徳を紹介した。
1903年、京都帝国大学の教授となる。
1906年、第一高等学校の校長に就任生徒たちに望んだのは、「自由を愛する心」であった。「偏った考え方に縛られないでほしい」「いつでものびのびと自由に物事を考え、行動してほしい」と願い続けた。
1918年、東京女子大学の初代学長に就任。
1920年、国際連盟事務次長に就任。
国際連盟の精神を広めるためにヨーロッパ各地を講演して回る。
1922年、国際知的協力委員会を設立。
委員長は哲学者のベルクソンノーベル賞クラスの学者(キュリー夫人アインシュタインなど)が参加。
かれらは、各国がお互いに文化を交流して相互理解を深めていくことが平和の基礎である、という信念のもと議論をした。
いまのユネスコ憲章の初めに、
「平和は人の心の中に築かれるべきものである」
ということを新渡戸稲造はこの委員会で強調した。
1926年、国際連盟を辞めて日本に帰国。
そのころ日本では軍部が力をもち、全体が戦争に向かって押し流されていた。1931年、中国に攻め込む。このままでは日本は世界の嫌われものになってしまう、稲造は世界と協調することの重要性を説いて回った。しかし人々は「日本を裏切る気か」「西洋かぶれの腰抜け」「お前など日本人ではない」などと    なじった。
1932年、松山市での講演会で新聞記者たちと懇談をした。「わが日本を滅ぼすのは共産党軍閥である。そのどちらかが怖いがといえは、いまでは軍閥と答えなければなるまい」
身の安全のため、アメリカに渡る。各地で日本の立場についての講演会を開く。
日本では軍部を抑えれ力あるものがなくなった。
1933年、日本は国際連盟を脱退。
それでも稲造は世界の人々の共存共栄のための努力を続けた。
1933年、カナダ・バンフで客死。


新渡戸稲造の考え方・生き方に学ぶ)
新渡戸稲造智慧から流れ出た言葉は何であったか。それはすでに述べましたように、
「人類は一つである」
という一言につきます。
この信念から、志から湧き出る勇気に励まされて、彼は世界平和のために世界を駆け巡った一生を送ることができたのです。
現代なお、戦争が起こる危険性がある世界情勢のなかで、私たちはこの彼の一貫した志と、その志に生きた彼の言動から、多くのことを学びとらなければなりません。
「人類は一つである」と声を大にして叫び続けようではありませんか。
このほかにも、次の言葉を心に刻み込みたいものです。
「願わくは我太平洋の橋とならん」
「自由を愛そう、偏った考え方に縛られないでほしい、いつでものびのびと自由に物事を考え、行動してほしい」
 
また、彼の生き方に大きな影響をあたえカーライルの
「お前には勇気がないのか。自由の子として地獄を踏みつける勇気はないのか、悪魔だろうが、地獄だろうが、恐れるな、男らしくたたかってやろうではないか」
という言葉も、私たちが困難に遭遇したときの大きな訓戒となるでしょう。


ここで最後に『武士道』についてふれてみます。

新渡戸稲造は、この書の中で強調しようとしたことは、
  
「武士道」は封建時代の道徳体系であるから消えたなくなるか、と言うとそうではない、「武士道」には無くなってはならないものがある、それはちょうど西洋の「騎士道」とキリスト教のようなものである。
西洋では中世以後「騎士道」は衰えていくが、その「騎士道」を磨き上げて「紳士道」として伝わってきている。同じように日本では「武士道」そのものはなくなるだろうが、それが宗教が受け止めて接ぎ木されて、世界に寄与する新しい道徳として生まれ変わるのであろう。
日本の伝統文化の中には決して西洋の道徳・宗教に劣らないものがある。
それは日本だけではなくて、どの民族にもどの文化にあり、それを尊重しなければならない。
西洋一極が世界を支配してはいけない。多文明違っていても、底の底まで掘っていけば、同じ人間だからみな通じる。つまり「人類は一つ」である。
ということでした。
  

(『武士道』の中からの引用)
義とは義理、「正義の道理」、「正義の道理」こそ私たちにとって、無条件に従うべき絶対命令であるべきではないか。「義理」は本来義務以外のことを意味していない。
勇は心の穏やかな平静さんによってあらわされる。まことに勇気ある人は、常に落ち着いて決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。
仁はやさしく母のような徳である。慈悲は女性的な性質であるやさしさと諭す力を備えている。私たちは公正さと義で物事を計らず、むやみに慈悲に心を奪われてしまうことのないように教えられている。
礼は「長い苦難に耐え親切で人をむやみに羨まず自慢せず思い上がらない、自己自身の利を求めず容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」ものであるといえる。

 (現代の日本の若者へ)
現代の日本の若者は外国に出ることに消極的であると言われています。
もう一度お願いしますが、どうか前記した「新渡戸稲造生誕150年記念 第1弾 世界を結ぶ「志」〜新渡戸稲造の生涯〜」 (http://www.hirameki.tv/)を見ていただきたい。
 そして「人類はみな同じである」という信念をもって、人類が犯す最大の愚行である戦争を防ぐために、そして諸民族の共存・共栄をもたらすために、世界に飛び出す勇気ある若者たちが出てくることを切に願ってやみません。