心が脳に影響を与える(2)

昨日の続きを書きます。まず、ジル・ボルト・テイラー博士の『奇跡の脳』からの抜粋文を再度記してみます。


1.出血中の血液が左脳の正常な機能を妨げたので、知覚は分類されず、細かいことにこだわらなくなりました。(中略)意識の中心はシータ村にいるかのようでした。仏教徒なら、涅槃(ニルバーナ)の境地に入ったと言うのでしょう。
2.左の脳の「やる」意識から右の脳の「いる」意識へと変わっていったのです。
3.自分自身をあなたとは違う存在として見る左脳の意識を失いましたが、右脳の意識と、からだを作り上げている細胞の意識は保っていたのです。
4.左脳が損傷したために言語中枢の自我の部分がなくなり、何のこだわりもなく他人の助けを歓迎できたからです。
5.右脳の個性の最も基本的な特色は、深い内なる安らぎと愛のこもった共感だからです。うちなる安らぎと共感の回路を動かせば動かすほど、より多くの平和と共感が世界に発信され、結果的により多くこの地球上に広がるでしょう。
6.(回復のしかたについて)最も重要なことは、わたしが挑戦する気になることでした。挑戦することがすべて。挑戦すというのは、脳にこんなふうに囁くこと。(ねえ、ねえ、この脳のなかのつながりは大切よね。やりとげたいの)
挑戦して、挑戦して、また挑戦しなくてはなりませんが、かすかな手がかりを得るまでは、1000回やっても何の結果も得られないかもしれませんが、それでも挑戦しなかったら、なにも始まらないんです。
7.一日に何百万回も「かいふくするのよ」と意を新たにしなければなりませんでした。
8.感謝する態度は、肉体面と感情面の治療に大きな効果をもたらします。
9.わたしはたしかに、右脳マインドが生命を包みこむ際の態度、柔軟さ、熱意が大好きですが、左脳マインドも実は驚きに満ちていることを知っています。なにしろわたしは、10年に近い歳月をかけて、左脳の性格を回復させようと努力したのですから。左脳の仕事は、右脳がもっている全エネルギーを受け取り、右脳が持っている現在の全情報を受け取り、右脳が感じているすばらしい可能性のすべてを受け取る責任を担い、それを実行可能な形にすること。

まず脳に「ねえ、ねえ、この脳のなかのつながりは大切よね。やりとげたいの」あるいは「かいふくするのよ」と囁き続けたという意志とその意志から発する言葉が脳に影響を与え、回復する原因となったという6.と7.との言明に注目してみたい。「回復したい」という意志の働きは心の作用であり、この心が脳の正常化をもたらしたのです。ここに明らかに心が脳に影響を与えたことが証明されています。
 加えて、言葉を囁くことが脳に影響を与えてたことは、心の中の出来事です。
 いま、「心の中の出来事」と言いましたが、私たちが認識する出来事は、すべて私たち一人ひとりの心の中に出現したものです。たとえば、私が眼の前にコップを見るとしますが、そのコップは私の心の中の影像です。その影像に「コップ」という名称を与えて、それがコップと成るのです。(物事は「在る」のではなく「成る」ものである)
 すべては心の中に出現したもの。では出現させるものはなにか。脳科学でしたら、それは脳であると答えます。これに対して、<唯識>はそれは阿頼耶識であると答えます。<唯識>は、広くは仏教は当時の解剖の知識をもちいて、現代にも通用するような種々の臓器の名前が経典のなかに述べられています。でも不思議なことに「脳」という、現代では重要視される器官が無視されています。その理由は何か、これは他日また考察することにして、心のありようが脳に影響を与えることが事実であることをジル・ボルト・テイラー博士の言明から知ることができます。
 このことは、「脳」が原因となって結果として生じた「心」が、今度は逆に原因となって脳に影響を与えるという結果を生んだのです。先日に述べた「安危同一」という相互因果関係がここでも成立していると言えるでしょう。
 一つ、不思議な問題を提起します。「脳」は質量を大きさがあります。これに対して「心」は色も形もない、したがって大きさのない存在です。大きさのある存在が大きさのない存在をなぜ生じるのか。それは説明のつかない不思議な出来事です。
 突然、論理を無視して、脳から生じる心以外の別の「心」という存在がもともとあるのではないか、という問いかけです。また一気に仏教に話を移しますが、そのような心が「般若」であり、「無上正覚」であると言えるのではないでしょうか。
 今日のブログの話も、あちらこちらに飛んでしました。時間がなく、今日はこれが終わりますが、支離滅裂な文章ですが、ブログ(論文ではない)の中の書き物として許してください。
 では、またゆっくりと。