脳科学から心科学へ

ジル・ボルト・テイラー博士の『奇跡の脳』について触れてきましたので、私が以前に書いた「脳科学から心科学へ」という小論を以下に記してみます。多くの専門語が出てきますが、我慢して読んでください。いずれ一語一語易しく説明していきます。

(1)脳科学から心科学へ
脳科学の発達によって脳の構造や働きが次々と解明され、その結果、心と脳との関係について「心は脳の働きによって作り出されたものである」というのが脳研究者の一致した見解である。
 この脳科学による素晴らしい成果によって、多くの複雑な心の活動、たとえば認知、知覚、感情、学習、記憶、思考、知能、意欲などのありようが解明されてきた。
  たしかに脳科学による成果は、広くは人間とはなにか、狭くは人間の心とはなにかを理解する上で、また、さまざまな病気、たとえば、アルツハイマー病に代表される認知症、、失語症、そしてさまざまな形態で発生する心身症などの治療に役立つものである。
 しかし、人間とは「なにか」、人間「いかに生きるべき」、という人生の二大問題を考える上で、脳の構造と働きとを解明しようとする「脳科学」のみでは不十分であり、片手落ちである。なぜなら、
「私たちの心には、貪り、怒り、無知(貪・瞋・癡の三毒)などに代表される多くの煩悩を持っているが、それら煩悩をなくすためには、どうすればよいのか、という問題が残る。」
 からである。
煩悩を生じる脳の分野、たとえば、感情・情動・気分をつかさどる大脳辺縁系神経核である海馬と扁桃体とを薬や器具で治療することができるであろうか。
あるいは生苦・老苦・病苦・死苦の四苦のなかの最大の苦である「死に対する恐れ」を脳を操作することによってなくすことができるであろうか。
これらの問に対して答えは簡単である。すなわち、そのようなことは「できない」のである。
 だから、心が脳から生じたものであるにしても、もう一つ忘れてならないのは、その生じた心の構造と働きとを解明する「心科学」とでも呼ぶべきものが必要になってくる。
 そのような心科学として唯識思想を採り上げたい。なぜなら、唯識思想は仏教でありながら、科学と哲学と宗教との三面を兼ね備え、深層にまでわたる心の構造と働きとを解明し、人間とは「なにか」、人間「いかに生きるべき」、を見事に説き示しているからである。

(2)脳科学の限界
次に脳科学の限界を考えてみよう。
1.対象となりえない究極のこころ
脳科学者たちのなかには、「こころの座は脳である」、という立場をとりながら、「脳が解き明かされるだけで、こころのすべてが説明つくだろうか」、あるいは、いのちのありようをすべて遺伝子の段階で考察しようとする遺伝子学者のなかにも、
「こころは遺伝子のくびきから脱して、別次元の世界をなしているのではないか」
と唱える人々がでてきている。
このような疑問がなぜ生じるのか、それをまず考えてみたい。
まず、分かり易く、喩えを出してみる。たとえば、あるものをさす「指」はさし示す
対象をさすことができるが、さす「指そのもの」をさすことができない。また、包丁は他のものを切ることができるが、包丁自身を切ることはできない。
 これと同じように、脳を対象として脳と心との関係を研究している人は、研究しつつある己の「こころそのもの」を対象として研究することができない。なぜなら、その「こころそのもの」(A)を対象とするならば、それを対象とする別の心(B)が現出するのである。つまり
「究極の主観は決して客観になることはあり得ない」
 のである。つまり、見つつある、観察しつつある、研究しつつある「こころそのもの」を対象とすることができないのである。
つまり、我々が普通にもつ「主観と客観とから成り立つ二元対立的な認識形式」では決してすべてのこころを認識することはできないのである。したがって、「対象となりえな究極のこころ」を認識するためには二元対立的認識(分別)から脱却する必要がある。そのためにヨーガ・止観・三昧・禅定などの実践が必要となる。
まさに、「阿頼耶識」とは、それを創唱した人々が「瑜伽行派」と呼ばれるように、二元対立的認識から脱却したヨーガ(瑜伽)という実践を通して発見されてこころなのである。今回の「阿頼耶識脳科学」というテーマを論じる際には、
阿頼耶識は、決して脳科学の対象にはなり得ない」
という事実を、まず確認すべきである。

2.煩悩をなくすことができない脳科学
すでに述べたように、私たちの心には、貪り、怒り、無知(貪・瞋・癡の三毒)などに代表される多くの煩悩を持っているが、それら煩悩を脳科学ではなくすことができない。
ところで、仏道の目的を一言でいえば、 転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)ことである。
その迷いの構造と内容、そして悟りの構造とその内容、そして迷から悟に至る実践について見事に解明し説き明かしたのが唯識思想である。

3.脳という器官を無視する仏教
 ところで仏教は脳という器官を軽視している。その理由をまず考えてみよう。
釈尊の時代には、すでに人体の精密な解剖がなされ、その成果が仏典の記述にみられる。たとえば、不浄観として、内身中の髮毛・爪齒・塵垢・皮肉・骸骨・筋脈・心膽・肝肺・
大腸・小腸・生藏・熟藏・肚胃・髀腎・膿血・熱痰・肪膏・肌髓・脳膜・洟唾・涙汗・屎尿などを観察することが説かれている。これらのなかに脳としては「脳膜」という語が認められるのみで、後述するように、六根の一つである意根すなわち意識を生じる器官が脳 のように一つの固定的・物質的な器官であると考えられてはいないのである。唯識思想では、意識を生じる器官、すなわち意根は、「無間滅の意」といわれ、間隙のない一刹那前の滅した六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の総体を言うのである。
その理由はなにか。それは、
眼根(視覚)が色(いろ・形)、耳根(聴覚)が声、乃至、身根(触覚)が触(感触)というふうに五根が個別の対象を持つことに対して、意根から生じる意識は、
「内界と外界とにわたるすべての存在(一切法)を対象」
とすることができるという事実から、意根を五根のように色根すなわち物質的な器官と考えなかったのであろう。たしかに身体の内部に限っても、意識を、たとえば、頭の頂上から、即座に足の裏に移すことができる。また、五識と倶に働いて外界のさまざまな対象を鮮明に捉えることができる。このように意識は広大無辺に動き回るという事実から、意識は眼識などの器官と違った種類の器官、すなわち心からなる器官を持つべきであると考え、そのようなものとして、前刹那に滅した六識、すなわち、無間滅の意が意識の器官であると考えたのであろう。
 とにかく仏教は(唯識思想は)、発生器官として脳という器官を無視していると言えよう。
 ではこのような仏教の立場をふまえて「阿頼耶識脳科学」というテーマにどのように取り組んでいくべきが、また取り組むことができるか、という問題が生じる。

(3)阿頼耶識から生じた身体の一部として脳
この問題を解決すためには唯識思想が説く「安危同一」という教えがヒントとなる。
安危同一(eka-yog-kSema)とは、二つのものの安と危とが同一である、すなわち、二つの一方が良い状態にあれば他方も良い状態になり、逆に一方が悪い状態であれば他方も悪い状態となるという相互関係をいう。そのような相互関係にあるものとして次のようなものが考えられている。
(鄯)造色(身体)と大種(構成要素)。
(鄱)羯羅藍(男性の精子と女性の卵子とが結合した直後の液状体の胎児の状態)と心心所。
(鄴)有根身(身体)と阿頼耶識
いまここで問題としたいのは(鄴)の身体(有根身)と識(阿頼耶識)との関係である。
これに関して、まず、唯識思想の唯識無境・唯識所変・一切不離識という根本的主張からして、
 「身体は阿頼耶識から作り出されたものである」
という主張を確認しておこう。
 唯識思想はこの主張に加えて、深層心である阿頼耶識の働きの一つに、
阿頼耶識は身体を作りだし、その身体を生理的・有機的に維持している」
という考えを付加するのである。そしてその維持は相互因果関係にある、すなわち、安危同一である、と説くのである。つまり、
阿頼耶識が良い状態にあれば、身体も良くなり、逆に悪い状態にあれば、身体も悪くなる。また身体が良い状態であれば、阿頼耶識も良くなり、逆の悪い状態にあれば深層心も悪くなる」
 と、このように相互に因となり果となる関係にある、と主張するのである。
   
 問いかけ:脳の中に心が在るのか、心の中に脳が在るのか?
「身心一如」の体験  
      ヨーガ・三昧・無分別智・禅定    不一不異
 たしかに、病気を治すには、その症状に応じた薬を飲むことも必要であるが、それはあくまでも一時的な対治療法である。そうではなくて、
「真の健康とは深層心から浄化することである」
いえよう。
では深層の阿頼耶識をすっきりと浄化し爽快にするにはどうすればよいか。以下、それについて論じてみよう。
(4)阿頼耶識を変革する二つの動因
 阿頼耶識を浄化するには下図のように正聞熏習(しょうもんくんじゅう)と無分別智(むふんべっち)という二つの動因が必要であると唯識の経論で強調されている。
 
  1.正聞熏習
    (定義)正しい師から正しい教えを繰り返し聞く。
     (応用)素晴らしい言葉を発して阿頼耶識に熏じつける。
        経典を読誦する。
   (1)経典を読誦する。お経を音吐朗々と読む。
         般若心経   
         ・色即是空 空即是色
         ・依般若波羅蜜多故 心無罣礙無罣礙故
          無有恐怖遠離一切顛倒夢想
   (2).素晴らしい言葉を阿頼耶識に熏じつける。
       「ありがとう」という言葉。利他即自利の行為。
  2.無分別智(三輪清浄の無分別智)
     自と他と、その間に成り立つ行為を分別しなくて、いま・ここになりきり、なりきって生きる!
   
      自    他

        行為
  
   (例)布施するという行為  「施者」と「受者」と「布施すという行為(物)」とを分別しない心。
    日常生活の中でなりきり、なりきって生きる。
       掃除・洗濯・仕事etc.
(5)無分別智を働かせる必要性(相縛からの解脱、 麁重縛(そじゅうばく)からの解脱)
   次に、なぜ無分別智を働かせる必要があるのか、その理由を考えてみよう。
 まず、無分別智には火となって「阿頼耶識の中の煩悩の種子を焼尽する」という働きがある。
   これに加えた、もう一つ、相縛と麁重縛という概念よって無分別智の働きを考慮する必要がある。    
    唯識思想では相縛と麁重縛という二つの束縛を説く。
  このうち、相縛とは、表層心の束縛であり、相とは具体的にこころの中に生じる「影像」と「思い」と「言葉」  などであり、それらによって我々の表層心が常に波打ち束縛されている。
  これに対して、麁重縛とは、深層心の束縛であり、麁重とは汚れた種子すなわち煩悩の種子であり、我々の阿頼 耶識のなかには、無量無数の煩悩の可能力(種子)が潜在している。
 そして、この二つの束縛に対して、唯識の経論に於ては、「相縛から解脱しない限り、麁重縛はあり得ない」と、 また逆に、「相縛から解脱して、はじめて麁重縛からも解脱することができる」と強調されている。
  相縛と麁重縛とが、阿頼耶識縁起の理にしたがって、相互に因果関係にある、すなわち相が麁重を生じ、麁重から再び相が生じ、またその相が麁重を植えつる、云々という悪循環を繰り返しているのであるから、まずは統御可能な表層心の束縛である相縛から解脱するために、
「相の無い無分別智を修する」
ことが必要であると主張するのである。