言葉がひとりあるきをする。

唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む

唯識とは何か―『法相二巻抄』を読む

たとえば、眼の前にコップをおいてそれを見るとします。
そこで、まず、眼をつぶって、そして開く。開いた瞬間は、影像があるだけで、それがまだなんであるかを認識していません。
しかしその影像に「コップ」という言葉を付与すると、その影像は「コップ」として認識されます。
そうなると「コップ」という言葉が、いわば“ひとりあるき“をして、見た瞬間の影像が忘れられてしまいます。
そして「このコップはなんのために使われるのだろうか」「陶器か磁器か」などと考えます。
このように言葉で考えはじめると、コップという言葉が付与される以前の “なまのもの”が心の中から影が薄くなってしまいます。
 「ものがなんであるかを考える」とは言葉で考えることである、という常識をはなて、そのものになりきりなりきって考えてみましょう。すると、それそのものが、心の中に、より強い印象となって刻みこまれてきます。
言葉は生きる上で確かに大切です。しかし、私たち人間は言葉に束縛されていることも事実です。
 言葉から解き放たれて、より自由に爽やかに生ききろう、と私は訴えたい。

唯識思想は、人間がいかに言葉に束縛されているか、そのありようを詳細に分析しています。
唯識思想については、上記の私の著書「唯識とは何か」をご参照ください。